人は神のかたちに創造され、神に似た者としてこの世界を治める使命と力が与えられている。そのような神のかたちとしての歩みを、普段の生活のレベルで考えているのが旧約聖書の知恵文学だと、鎌野直人氏(関西聖書神学校学監)は言う。鎌野氏が6月23縲鰀25日、東京聖書学院で講義した「旧約知恵文学|神のかたちに造られた人の普段の生活を考える」から抄録する。

A. 知恵文学
旧約聖書の知恵文学として、「箴言」、「伝道者の書(伝道の書、コヘレトのことば)」、「ヨブ記」の三つがあげられる。さらに、中間時代以降の知恵文学として、旧約聖書続編(アポクリファ)に収められている「シラ書(ベン・シラの知恵)」と「知恵の書(ソロモンの知恵)」がある。これらの文書を一読すると、内容や形式の一貫性を見いだすことができると共に、それぞれがもつ異なったニュアンスに気付く。その理由の一つは、知恵そのものが幅広いからだ。
旧約聖書を見ても、そこには大きくわけて三種類の知恵が存在する。
まず、生活の実際的な技能としての知恵である。「手芸、耕作、石工、金銀細工の技術、幕屋建設、神殿建設、造船、航海、農業、音楽、文書能力などに関しての知恵」などがこれにあたる。幕屋の建築の段で登場するベザレルやアホリアブは「知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた」(出エジプト35・31)とある。
次に、箴言としての知恵がある。格言や謎、教訓など、人生に関する短いことばで、個人や家族や国のしあわせを記したり、人生についての鋭い観察をまとめたりしたものを指す。そこには、家庭における知恵、村社会における知恵、王宮における知恵などが含まれている。旧約聖書においては、箴言がこれにあたる。
三つ目に、思索としての知恵がある。モノローグや対話、小品や物語を通して、生きることの意味、成功への道、苦難の問題などの人間の直面する根本的な問題を問いかけるものである。ただし、知者たちは物事を抽象的に、法則として考えるのではなく、実際的に、具体例に則して考えている。伝道者の書やヨブ記がこれにあたる。ただし、ヨブ記の情熱的な議論とは異なり、伝道者の書は冷静な観察と思索に満ちている。

知恵のパトロンとしてのソロモン
多様性に満ちた知恵文学であるが、旧約聖書はそこに統一性をもたらすような、一人の王の存在を示唆している。それは、ソロモンである。
ユダヤのラビの伝統によると、「ソロモンは思春期に雅歌を書き、成熟した知恵をもって箴言を書き、老齢時に迷いからさめて伝道の書を書いた」と言われている。事実、箴言は「ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言」(箴言1・1)をもって、雅歌は「ソロモンの雅歌」(雅歌1・1)をもって始まっており、ソロモンの名が記されている。ただし、伝道者の書は「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉」(伝道1・1)と「ソロモン」とは明記されていない(が、うっすらと示唆されている)。
Ⅰ列王記に記されているソロモンの記事において、彼の信仰者としての姿は「知恵」と結びつけられている。知者としての彼の姿は、聖書においては一貫して積極的に評価されている。(Ⅰ列王記3・11縲鰀14)
また、Ⅰ列王記4・29縲鰀34に描かれているように、箴言と歌、被造物としての草木と獣と鳥と這うものに関する知識(創世記1~2章参照)は、芸術のパトロンとしての王の姿をあらわしているのと同時に、天地創造の神の「代理人」としてこの世界を治める上で重要なものであったと考えられる。

知恵の国際的な広がり
ソロモンの知恵が、「東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵」(4・30)と比較されていることからわかるように、知恵文学というジャンルの文書は、イスラエルに限られたものではない。広く古代近東の各国、特にエジプトとメソポタミアに存在していた。そこには、人間の知性の賛歌、世界や社会の様々なものごとの動き方に適用される様々な手法がつづられているし、長い時間の中で試され、真実であることが明らかになった、伝統的なアドバイスとしての格言が数多く含まれている。
知恵文学は国際的な広がりをもっている。それは、人間の経験には一定の共通性があるからであり、同じ格言などが他国へと広がっていったこともあるだろう。(つづく)